フィクションの音域 現代小説の考察

立ち読み

出発はするが、到着はしない。間に別の話題が挟まり、到着もしていないうちに、出発―到着という出来事が知らぬ間に過去のものになっている。このような語りの進み行きは、「ふるさと以外のことは知らない」以降のこ
  2014年6月20日記す 古谷利裕 ●柴崎友香「春の庭」(「文學界」6月号)を読んだ。面白かった。最後の方の、姉と弟の場面が、しみじみとよかった。 ●『寝ても覚めても』や『ドリ
 すべての人が自分のことを「わたし」と呼ぶ。つまり世界には「わたし」しかいない。これは驚くべきことではないか。このことを考えるとわたしは恐怖で硬直してしまう。 例えば、酒を飲んだ帰りの終電に近い混んだ
 「風景が私のなかで考える」、正確に引用すれば《風景は、私のなかで反射し、人間的になり、自らを思考する》。これはガスケによって書きとめられたセザンヌの言葉だ(『セザンヌ』ガスケ)。私が考えるのではなく
  1 「四十日と四十夜のメルへン」 「四十日と四十夜のメルへン」の冒頭、主人公は、住んでいるアバートのポストを確認した後、スーパーの買い物袋を手に下げて四階にある自分の部屋まで階段をのぼってゆく。階
この、恐ろしく雑多にエピソードがびっしりと詰まった、しかも、その密度にかなりムラのある本について、一体どんなことを書けばよいのかと呆然としている。何かしら、まとまったことを言うことなど可能なのだろうか