フィクションの音域 現代小説の考察

書かれたことと書かせたもの  青木淳悟・論  「四十日と四十夜のメルへン」から「ふるさと以外のことは知らない」まで (冒頭)

2014年07月14日 20:25

  

1 「四十日と四十夜のメルへン」

 「四十日と四十夜のメルへン」の冒頭、主人公は、住んでいるアバートのポストを確認した後、スーパーの買い物袋を手に下げて四階にある自分の部屋まで階段をのぼってゆく。階段をのぼりつつ、この建物「都営住宅メイフラワー下井草」が、四階建てであるとか、エレべーターがないとか、三階には誰も住んでいないとか、玄関の扉が緑色だとかいぅような、住宅についての説明が主人公=話者によって述べられる。そして主人公は、自身の住居のある四階まできて、隣室(四〇二号)のアルミ格子に挟んであった新聞に肩が触れてそれを落としてしまい、その新聞をひろって自室に持ち帰る。ここで主人公は、はじめて隣室の新聞を盗む。後に出てくる日記の記述と照合するならば、この冒頭の出来事は、七月六日の日曜のことだとわかる。

 その後、一行分のスペースが空けられ、さらに、隣室は表札がない、男女二人で住んでいる、女の様子はこうで、男の様子はこうだ、というように、アバートについての説明の延長のように、隣室についての記述がなされる。だから読者は、ここでは当然時間が連続しているように感じる。しかし、隣室についての説明が一区切りつき、段落がかわったとたんに、《四〇二号の新聞を盗みつづける。》《最近はいつも部屋を出がけに隣室の新聞を抜き取り、そっとバッグにしまい込んでそのまま外出する》などと書かれる。いつの間にか、新聞を盗むことが習慣化するほどに時間が経ってしまつている。

 この小説の地の文の一人称の話者=主人公は、冒頭にポストを視き、《今日》、全く同じチラシが五十枚以上まとめて投函されていたことを嘆いている。

ポストを開けると同じ顔をしたチラシが二枚ほど収まっている。わたしはうなずいて、そのどちらか一枚を捨てるだけだ。しかし今日、ポストにはまったく同じチラシがおそらくは五十枚以上(!)投函されていたのである。こういう心無い千渉が人を痛めつけることになる。だってわたしは集配物で、その日その日を占ってきたのだから。  (「四十日と四十夜のメルへン」)

 ここに 《今日》という、話者が存在する時間的地点を特定するような言葉がなければ、話者はどこか確定出来ない未来から、過去の出来事について語っていると考えられるので、この唐突な時間の飛躍をそれほど不自然だとは感じないかもしれない。しかし、話者が《今日》と言うからには、少なくとも冒頭の一まとまりのシーンについては、《今日》のことが《今日》のうちに語られているはずだと感じる。だが、この
《今日》という特定は、いつの間にかどこかへ行ってしまう。ここでは、たんに「描かれている時間」が飛躍しているのではなくて、それを語っている視点(語りの基盤)そのものがずれ込んでしまっているのだ。

 七月六日の日曜日であったはずの《今日》 に置かれていた「視点」は、断層を挟むことなく (住居についての説明がつづいているうちに)、滑らかに、どこか不確定な別の点へと、知らないうちに移動してしまっていたのだ。さらに、ここで《今日》が見失われている以上、後に書かれる、いつも出がけに新聞を抜き取っているという《最近》が、一体いつのことなのか、どの地点からみられた《最近》なのかも、さっぱり分らなくなる。《今日》というある特定された時間的地点が、《最近》という曖昧な幅のある時間へとずれ込んでいる(しかもこの《最近》には《今日》は含まれない)。冒頭のほんの三、四ページの、描かれた内容からするとなんということもないこの冒頭部分だけで、この小説は何ともいえない、気持ち悪い、納まりの悪い感触を、読者に突きつけている。通常の一人称として、話者としての「わたし」と、それによって語られる主人公の「わたし」との距離の操作が安定しているような小説であれば、決して《今日》や《最近》と書かれることはなく、おそらく「この日」とか「この頃には」と書かれるはずであろう。

 しかし、この小説における「わたし」の位置の不確定さは、なにも時間的な位置にばかりあるわけではない。例えば、この物語を語る者でもあり、この物語によって語られている者でもある「わたし」が、男性なのか女性なのか、それをはっきりと特定出来るものがこの小説の内部には存在しない。

 男性名の作家による、特別になにかしらの性的な徴をもたせていない「わたし」という一人称の小説を読む時、読者は当然のように、それは男性であると思い込んで読み進めてしまう。しかし終盤になると、どうもこの主人公は女性ではないかと思わせる徴が多くあることに気がつく。メルキュールをメーキューと読み違え、グーテンベルクをブーテンベルクと書き間違う主人公を、読者は男性だと読み違えてしまっていたかもしれないのだ。このことは、終盤、上井草という名前をもつ「彼」が登場することからも察せられる。主人公の部屋に溜まったチラシを捨てるためのアイディアを出し、それをわざわざ隣りの区のゴミ捨て場まで運んだり、引っ越しの時に、ベッドを廃棄するために一緒に階下まで運んだりする、一緒に住んでいるらしい「彼」の存在によって、主人公の性別が女性であったのではないかと推し量られる(この「彼」も、いつから一緒に住んでいるのか分らず、ある時突然にあらわれる)。

 だがここで、「わたし」がはっきりと女性と特定出来ることが書かれているわけでもない。主人公は男性で、上井草は、ただのルームシェアしている同性の友人かも知れないし、二人はゲイのカップルであるかもしれない。しかし、一度、主人公を女性ではないかと疑い出すと、その徴候は小説中のいたるところに埋め込まれていることが、事後的に分る。些細なことがらに対する過剰なこだわりが感じられる記述には、注意が必要だろう。そこには往々にして、こだわりが示されている過剰な細部そのものではなく、その過剰性の目くらましによって隠そうとしている別の何ものかが存在していて、そちらの方が重要であったりする。

 「四十日と四十夜のメルへン」では、何度も反復的に記述される過剰な日常的細部はあきらかに暗号解読的な読みを誘うようにして書かれている。そしてこの小説は、読み込めば読み込むほどに、めくるめくような細部同士のあやしげな反響がみえてきて、その反響関係によって示されるものに注意が誘われるようになっている。しかしここでは、そのような暗号解読へと人を向かわせる誘惑こそが、別の何ものか、もっと言えば、ごく散文的な事実を隠しているようにも思われる。

 この小説でまず最も目につく「あやしさ」は、同一の日付をもつ日記が、何度も繰り返し書かれていることだ。つまりここでは、日記につけられた日付と、それが実際に書かれた日付との対応関係が、まったくあてにならないものとなる。

 この日記は、日付と曜日のみが記されているだけで、その年次までを特定することが出来ない。だが七月四日の金曜日から、七月七日の月曜日までが繰り返される曜日を頼りに年次を推測することは出来る。

 七月四日が金曜である最近の年は、一九九七年と二〇〇三年である(この小説は二〇〇三年に発表されたものであるから、それ以降はとりあえず省く)。そしてこの日記には、七月六日に杉並区長選挙があったと、繰り返し書かれている。この二つの事実を組み合わせると、九七年には杉並区長選挙はなくて、〇三年にはあるので、この日記は、ほぼ二〇〇三年のものだと言えそうである。しかし、小説を読みつづけてゆくと、主人公は短冊状に切ったハガキに「今月、恐怖の大王が降りてきませんように」などと願い事を書いている。ノストラダムスの予言は一九九九年の七の月であり、そして、九九年には杉並区長選挙は行われている。しかし、九九年の七月六日は日記と違い日曜日ではないのだ。

 さらに、主人公は月曜にフランス語を習いにいっているのだが、《ともあれ月曜日は西東京市へ、というか、あの頃はまだニ市合併前だから正確には田無市へ、わたしはフランス語を習いにいった》と書かれている。田無市と保谷市が合併したのが二〇〇一年であるので、そうなると日付の年次が二〇〇三年ではありえなくなる。

 だとしたら、チラシの裏に書かれた、断片的な日記の日付と曜日との対応がそもそも信用出来ないものなのではないか、と不安になる。これはたんなる一例に過ぎず、このような時間の混乱は作中にいくつも仕掛けられている(読めば読む程、驚くほどにごろごろ出て来る)。そしてこの混乱は、主人公がアバートの部屋に雪崩を起こしてしまうほどに溜め込んだチラシの山や、小説教室の講師である小説家「はいじまみのる」が、ニ年の月日を費やして翻訳した「ユルバン記」の千枚にも及ぶ紙片、メルへンのなかで舞い散る紙吹雪などと響き合いつつ、この小説の圧倒的な迫力をつくりだしている。

 だが、このような、自らの立ち位置が崩れてゆくような、細部相互の圧倒的な反響と混乱の迫力によってみえなくなるものは何だろうか。例えば、この日記はなぜ、七月四日からはじめられ、七月七日までつづけられて、その間を何度も繰り返しているのだろうか。

 その点に関しては、それらしい答えがこじつけられないわけではない。主人公はメイフラワー下井草というアバートに住んでいる。メイフラワー号と言えば、清教徒たちがアメリカに移住するために乗った船の名前であり、だとすれば七月四日とは、アメリ力の独立記念日を意味するのではないか。実際、この小説にはキリスト教的な主題が散見される。イエズス会やロシア正教から、エホパの証人まで、「キリスト教ネタ」は、陰謀史観にも通じるような、この小説のあやしさを一層あおりたてているように思われる。あるいは、この小説は常に「四」という数字を巡って仕掛けられている。七月四日からの四日間が繰り返し日記に書かれるし、出来事から予想される年次一九九九年と、曜日と日付から予想される年次二〇〇三年とは四年のズレがあるし、主人公は四〇一号室の住人である。そして、杉並区長選挙は四年に一度だ。この「四」.という数字は智天使ケルピムの顔の数に起源をもつのではないか、等々。

 しかし、そのような細部の反響に煽られることなく、もっと素朴に読んでゆくと、一体何が見えてくるだろうか。七月四日に日記が書き始められる直前に起こったこととは何だろうか。おそらくその出来事が、日記を書く動機になっているのではないだろうか。

 この小説の、細部の混乱と充実にまどわされずに、あくまで素朴に読むならば、それは、主人公が文芸創作教室の最終講義を休んだという事実であり、その同じ講座の受講生からかかってきた電話に対して、ボーリング大会やお食事会といった「打ち上げ」には参加出来ないと告げたことであろう。文芸創作教室の講師「はいじまみのる」は、主人公に課題作品の返却が出来なくて困っている、という旨を、その受講生に告げている。

 しかし、小説の記述によれば、主人公とはいじまとは相当に親しい関係であり、主人公ははいじまの自宅へも度々訪れ、彼のデビュー作『裸足の僧侶たち』のもととなった「ユルバン記」さえも読ませてもらっている。それどころかはいじまは、昭島にある自分の家が火事になって燃えているその時に、その事実を知らせる電話を主人公にしてさえいる。それほど親しいのならば、課題作品は本人に直接に会って返せばよいのではないか。

 それが出来ないというのは、二人の関係が、それが出来ないようなものになったということだろう。そして、主人公はどうも女性ではないかという疑いが生じた後で、一番考えやすいその理由は、二人の恋愛関係が破線した、ということではないだろうか。そしてその破錠が、そもそもこの小説は「はじまり」にあり、それが小説が(記述が)たちあがる「とっかかり」となったのではないか。

 主人公は、はいじまが口にしたという「新しい小説を書いて下さい」という言葉に執拗にこだわっている。《ニーコライ先生のいう「新しい小説」とは、新たに書き出せという意味に過ぎないのだろうか。あれにはもっとほかに意味があったのではないのか。新しい小説を書いて下さい--その言葉を人から伝え聞いたとき、何となく励まされた気がしたのだ。響き方が普通じゃない、きっと何かある、と思った。しかし小説はまだ書けていなく、最近はなぜか日記をつけることしかできないでいる》。ここで言われる「新しい小説」を、読者は、はいじまが主人公の才能を見込んでいて、従来には無い「新しい」小説を書くようにと励ましていると読むのだが、しかし、実は、たんに「新しい恋人を探してください」程度の、つまらない言い換えに過ぎないかもしれない。

 日記の日付は、七月七日から先に進むことはない。この日に主人公は、「新しい小説」を断念して「メルヘン」を書こうと思い立つ。これ以降主人公は、メルへンを書き継ぎつつ、七月四日から七日までの四日間の出来事を繰り返し何度も日記として書くことになる。何度も書き直され、書き加えられるうち、この四日間の記述のなかに、それ以降の出来事も混じり込んで来る(例えば、隣室の新聞をはじめて盗んだのが七月六日であるはずなのに、同じ日付のうちに、いつの間にか部屋には盗んだ古新聞がたまってゆく。それどころか、ノストラダムスの予言した七の月は無事に過ぎた、という旨の新聞記事を、七月であるはずのその日に「古新聞」で読んだりする)。

 メルヘンは、日記の記述と互いに密接に響き合うように書かれる。つまり、メルへンの記述は、日記の日付以降の主人公の生活を反映しているといってよいのだろう。それは主に、理不尽な労働と、叶わないであろう恋愛に関する事柄で埋められている。

(つづく)

古谷利裕 (初出 「新潮」二〇〇八年二月号)

「本のデータ」

書名 『四十日と四十夜のメルへン』『いい子は家で』

著者 青木淳悟

出版社 新潮社