フィクションの音域 現代小説の考察

関係のなかで関係が考える   津村記久子『とにかくうちに帰ります』

2014年07月14日 22:52

 「風景が私のなかで考える」、正確に引用すれば《風景は、私のなかで反射し、人間的になり、自らを思考する》。これはガスケによって書きとめられたセザンヌの言葉だ(『セザンヌ』ガスケ)。私が考えるのではなく、私のなかへと反射された風景そのものが、自らを思考する。思考するのは私ではなく風景であり、私は、風景の思考を反射する感光板であり、私のメチエはその翻訳である。セザンヌはそう言っている。

 《私》がどんな人物なのかはまだ分からない。ただ《田上さん》への眼差しだけがある。この本はそのようにはじまる。そこは会社であるらしいが、どのような職種で、どの程度の規模なのかもまだ分からない。《田上さん》の仕事は、社内の誰かから書類を受け取り、何かを書きこみ、誰かに返すというものらしい。つまり対外的なものではなく社内の関係の内にある。《男連中》はそのような仕事を《誰にでもできる字を書くだけのもの》と侮っているという。《田上さん》は、書類の流れを滑らかにしたり滞らせたりすることでそんな《男連中》の環境=風景に介入するが、それに気づくのは風景の側にいる《私》だけだ。《男連中》は、思考するのは「私」であって風景など些事に過ぎないと思っているのだろう。

 だがそこは会社であり、すべての人は仕事を媒介として関係している。あらゆる行為の背景(地)に関係がある。関係しているということは、誰かの行為が必ず別の誰かに影響を及ぼすということだ。そして、誰のどのような行為がどのような形で誰に影響したのか、その影響関係総体のダイヤグラムは複雑過ぎて神か関係それ自身にしか把握できないだろう。影響関係の複雑さと、それを理解せずあくまで「私が考える」と思っている男(《山崎さん》)の姿が、インフルエンザの流行を通して戯画的に描かれもする。

 しかし最初に置かれたこの作品中最も魅力的な存在は《間宮さん》であろう。《田上さん》が「意識的」に「仕事」を通じて関係に介入するのに対し、《間宮さん》は「無意識」のうちに「物」を通じて関係に介入する。《田上さん》はリズムを変え、《間宮さん》は配置を変える。「私が考える」から最も遠い場所で《間宮さん》のなかで関係が考えている。《間宮さん》は、他人の私物を勝手に使い、勝手に使ったことを忘れ、どこかに置き忘れてしまう。また、他人に私物を使われることにも頓着しないから、彼に勝手に物を使われる他の人も、彼の私物を躊躇なく使う。

 彼は、物の所有に対する執着が希薄であると同時に、おそらく自他の区別が明確ではないために、「執着の希薄さ」が他者の所有物に対しても表現されてしまうのだ。そして所有への執着の希薄さと自他の未分化は関係している。私は、私の所有物によって私であるから。

 《私》にとって《ペリカーノジュニア》という万年筆は、失業時代の苦しさと新しい会社での決意の物質的表現であり、自分にふさわしい身の丈の表現でもある。流通する様々な商品の関係性のなかで《ペリカーノジュニア》が占める位置と、社会の関係性のなかで《私》が占める位置が重ねられている。《間宮さん》はそのような重要な物を無頓着に持ち出し、別の位置に置き去りにする。だがこれは「私」の否定ではなく関係のマッサージなのだ。あなたにその物(位置)はまだ必要なの? あるいは、もっと別の関係性は考えられない? と。

 二つ目の作品で関係は拡張する。眼差しが会社の外へのびてゆく。《私》は、HDレコーダーに録画した番組をDVDに落とす作業中に《顔がものすごく濃》いアルゼンチンのフィギュアスケート選手にふと目がとまり、それ以来その選手のことが気にかかり、調べるようになる。

 一つ目の作品が、複雑に絡まり合った会社内の関係の話であったとすれば、二つ目の作品は、関係があると言えるか分からない程遠い「あちら」と「こちら」の関係/無関係を巡る。そして、こちらにはこちらの関係があり、あちらにはあちらの関係があるのだから、関係と関係の関係が問題となる。

 一つ目の作品と連続しながらも微妙にキャラが違う人物たちによるこちら側の関係と、アルゼンチン国内ではトップをキープするものの国際的にはいまひとつな感じのフィギュアスケート選手とその周辺であるあちら側の関係とが、《私》という視点において接する。

 この時《私》は、こちら側の関係の一項であると同時に、こちら側とあちら側とをつなげる媒介でもあり、つまり、こちら側にいると同時に、こちらとあちらの中間にいる。面白いことに、こちらとあちらの二重化に伴って、一作目では独立した人物であった《浄之内さん》がまるで《私》の分身(裏表)であるかのような様相を呈し、世界と同時に《私》も二重化しているようだ。

 表題作である三作目は、二組の二人組と二つの橋の話である。一人称から三人称となり登場人物も入れ替わるが、最も大きな変化は、これまでは人と人との関係のみが問題とされてきたのに対し、人と自然(気象)との関係が問題となる点だ。正確には人と人との関係に対する自然の関係と言うべきか。

 一作目の書類やインフルエンザは、人間同士の関係を表現するものとしてあった(人間関係の内に閉じていた)が、豪雨は、その閉じた関係に介入し、それを書き換える力をもつ。《間宮さん》の無頓着さは関係の表層レベルでの混乱を生むに留まるが、豪雨は関係の土台(地)に作用し、関係を潜在的次元にまで押し戻し、その根本的な見直し(思考)を強いる。それは、関係(図)が描かれる関係(地)である環境を揺り動かすのだから。おかげで《ハラ》は職場ではありえない同僚との関係を発見し、《サカキ》は新たな子供との関係を発見する。

 考えるのは私ではなく関係である。

 会社という関係のなかで、《田上さん》と「書類」の関係が考え、《間宮さん》と「物」の関係が考える。埋立洲という地形(地理的関係)のなかで、豪雨と人の関係が考える。

古谷利裕(初出 「群像」二〇一二年五月号)


「本のデータ」

書名 『とにかくうちに帰ります』

著者 津村記久子

出版社 新潮社