フィクションの音域 現代小説の考察

芥川賞記念 「春の庭」(柴崎友香)感想 (「偽日記」より、日付つき)

2014年07月20日 21:39

 

2014年6月20日記す 古谷利裕

●柴崎友香「春の庭」(「文學界」6月号)を読んだ。面白かった。最後の方の、姉と弟の場面が、しみじみとよかった。

●『寝ても覚めても』や『ドリーマーズ』などの「多重フレーム」物のまた新しい展開という感じだろうか。ある特定の人(視点)がいて、その人物が多重化された複数のフレーム間を移動するという感覚と、ある程度安定したフレームが存在していて、そのフレームのなかを複数の人(や物)が出入りするという感覚とが、両方、うまく重ねられている感じ。ここでフレームとは、主に空間の区切り(部屋、建物、土地)のことだが、ある特定の空間の区切りはまた、現実と虚構、現在と過去、直接知覚とメディアを介した知覚、知覚と想像、へと分離し、また、重ね合される。つまり一つの特定の土地も複数のフレームに分離する。

●太郎は、大阪から東京へ移動し、西は、名古屋から東京、そして千葉へ、沼津(かつて沼津だった男)は、静岡から東京、そして北海道へ、実和子は、北海道から東京、そして福岡へ、太郎の姉は、名古屋から台湾へ行きそびれて東京へ、と移動し、そして「巳」さんはずっと東京で、それぞれの人物がその移動の過程の重なる場所=フレーム(東京・世田谷・ビューパレス サエキⅢと水色の家・この小説)によって関係づけられる。これがまず、もっとも基本的なフレームだろう。

●また、語りという点から見れば、視点こそがフレームであるとも言える。まず、太郎の視点(三人称一視点)というフレームから世界は記述され、居酒屋での会話を介して、西の視点(三人称一視点)がそこに追加される。そして最後に、「わたし(一人称)」という形で太郎の姉の視点が前面を覆うようにあらわれる。つまり、それ自体として複数のフレームをもつ「この世界」が、三つのフレームによって語られる、と言える。太郎と姉との対話の場面が素晴らしいのは、二つのフレームのズレと重なりとが描き出されているからだと思う。

そして、太郎が夜中に一人で水色の家に忍び込む最後の場面が、まるで姉の「わたし」によって語られているかのようにも読めるニュアンスで語られることによって、四つ目のフレームが現れるとも言える。このフレームでは、複数のフレーム(視点としての太郎と姉、そして一つの場における、現実と虚構、現在と過去、直接知覚とメディアを介した知覚、知覚と想像)が、分離するのではなく、一瞬だけ溶け合って(というか、混同されてしまって)いるように感じられる。この四つ目のフレームの次元を出現させるために、それまでの過程があったとも言えると思う。

●この小説では、人だけでなく、「物」も交換によって頻繁に移動する。太郎が落とした会社の鍵は、沼津(かつて沼津だった男)が出張の土産に買ってきた「ままかり」と交換され、それはさらに「ドリップコーヒー」へと交換され、ごぼうパンへと交換される。西が友達の店から引き取ってきた「鳩時計」は、お礼として太郎の元へと移動され、さらに結婚祝いとして沼津(かつて沼津だった男)の元へ移動し、そのお礼として毛ガニやイクラが返され、それが西を通じて実和子の家へと持ち込まれ、そのお礼(というわけでもないが)として、太郎の家には大量のソファーと冷蔵庫がもたらされる。

(余談だが、「寝そべる」ことを好む太郎の部屋に、それを阻害するかのように多量のソファが水色の家から持ち込まれたことで、太郎の「寝そべり」が部屋=フレームから押し出され、故に、ラストで、太郎の「寝そべり」が水色の家へと移動した、とも言えて、つまりこの小説では、物や人だけでなく、行為=仕草までがフレーム間を移動する。)

●複数のフレームがあり(部屋・建物・土地、そしてそのそれぞれの、現実と虚構、現在と過去、直接知覚とメディアを介した知覚、知覚と想像という様相)、そのフレームの間を移動する多数の要素たちがある(人・物・仕草)。そして人は自らの視点をもち、それ自身としても一つのフレームである(多重なフレーム同士をフレーミングするフレーム、または、自らも配置する、配置されるもの)。フレームはそれ自身では空の器であり、様々に要素を受け入れたり排出したりするものだ。とはいえ、フレームそれ自身も、一定の性格やクセをもち、時間のなかで変化する(建物は取り壊され、人は歳を取り、死ぬこともある)。

●「春の庭」という写真集は一冊の本であるが、それを見る人ごとに、異なる「水色の家」を、「牛島タロー」「馬村かいこ」を生み出し、分岐させる。しかしその、その、様々な人にとってのそれぞれの「春の庭」像は、それが同じ一冊の本からもたらされたことによってふたたび束ねられ、互いに関係し合ったり、比較されたり、時には混ざり合ったりもするだろう。

「馬村かいこ」もまた、写真集に写っている馬村かいこ、イラスト集を描いた馬村かいこ、ウェブ上のヨガ教室をしている沢田明日香、等のフレーム(メディア)ごとに分岐し、しかしそれらはどれも「馬村かいこ(人・フレーム)」であることによって関係づけられ、それによって、その差異が発見される。

●同じ人物が複数のフレームの一部分へと分岐する一方、異なる人物が一つのフレームの内に括られることもある。太郎にとって「巳さん」は、まず母との比較によってあらわれ、後に、父と同じ年齢であることから父と重ねられる。だが「巳さん」は、父の分身ではなく、父の歴史を感じさせる人物であると言えよう。一方、西は、太郎にとっては明確に姉の影であるようにみえる。しかしむしろ、この小説というフレームからみるならば、姉の方こそが西の影であり、終盤の(一人称)わたし=姉の出現は、この小説が完全に西の管理下におかれたということの表れであり、西の欲望こそがこの小説の運動を支配しているのだという証しのようにも思われる。

●牛島―馬村夫婦(このカップルは、干支の午が「牛」と似ていることからきているのだろう)と、実和子一家は、少しも似ていない。しかし、にもかかわらず、同じ「水色の家」というフレームに括られることによって、同一カテゴリーとみなされる。つまり「絵に描いた」ような幸せそうな生活を送る人たちであり、それは太郎や「巳さん」や西とは「別の世界」に位置する。それは経済格差とか、そういう意味ではない。西にとって、目の前にある現実の水色の家は、あくまで写真集「春の庭」を通して現れたものであり、それをはじめて見た時に(そして繰り返し見るたびに)自分のなかに生じたある「良い感覚」とつながっている。それは写真集+水色の家という多重化されたフレームである。西の「黄緑色の浴室」への狂気じみた執着は、現実の場所でありながら現実にはあり得ないかもしれない「何かよいもの」への超越的な通路であるような場所だからだろう。

太郎は、そのような西の欲望を尊重し、その実現に協力しなければならない責務のようなものを感じながらも、欲望そのもの(良い何かに繋がるもの)を共有することはない。この二人のフレームのズレは、姉と弟のズレとして描きだされていたものと似ている。太郎にとっても水色の家は現実と虚構とを重ね合わせたフレームであり、「良い何か」には違いないが、その「良さ」はテレビドラマ程度ものであろう。太郎は、≪特撮ヒーローものは好きだったが、どちらかというと変な部分をみつけて笑うような子供だった≫。とはいえ、それが貴重な、なくてはならない、良いものであることにかわりはないだろう。

●この小説が、西の狂気じみた欲望をたしなめるかのような太郎の行為で終わることは味わい深い(父の遺骨を粉にしたすり鉢を水色の家の庭に埋めたのは、父の死がもはや虚構の側に近い位置に移行したということなのだろうか)。しかもそれは、わたし(姉=西)の空想のなかで展開されているとも読めるようなニュアンスで書かれている。

この小説を駆動し、支えている欲望が西の側にあるとしても、それが主に太郎の視点から描かれているということは、そこに「託された何か」が太郎へと移行されているということなのだろう。ラストには、太郎でも西でも姉でもなく、現実でも虚構でもないフレームが現れているように思われた。

●この小説における、「多重なフレーム同士をフレーミングするフレーム、または、自らも配置する、配置されるもの」=人というのは、例えば次のようなシステムのようなものだと認識されているように思った。

≪一時、高校生くらいのころは、生物の進化には意思が関係していて、こうなったらいいのにという願望がある程度反映されるのだと思っていたが、生物学や進化論ではそれは正しくないらしいことも知っているし、今は太郎自身も、こういった奇妙な生物の生態を知る度に、なんだかわからないがそういう仕組みができてしまったから続けている、延々と続けている、ただそれだけではないかと考えるようになった。

なぜこんな面倒なことと思いつつ、違う種類の葉も実も食べられたらいいのにと思いつつ、そうなる仕組みになっていることを繰り返すしかない。繰り返せなくなったら、少なくとも今の形の自分たちはいなくなる。≫

 

  2014年6月21日記す 古谷利裕

●どうでもいい話かもしれないのだけど「春の庭」(柴崎友香)の舞台となるアパートは部屋に番号ではなく干支の名前がつけられていて、しかし、部屋は八つしかない。一階の四室が、亥、戌、酉、申、で、二階が、未、午、巳、辰、だから、卯、寅、丑、子、が失われている。ここでは明らかに4(うるう年が巡ってくる周期)×3(アパートの名は、ビューパレス サエキ「Ⅲ」だ)=12(十二支)、という周期が意識されている。

では、失われた四つはどこにいったのだろうか。こういう「意味ありげ」なところに過剰に意味を見出そうとするのはあやういのだけど、それでもこの不在はちょっと気になる。まずわかりやすいのは「丑」で、写真集「春の庭」をつくり、水色の家にかつて住んだ牛島タローの存在(というかその「名」)が穴を補填する。そしてもう一つ、「寅」はアパートの大家の息子、寅彦という名が穴を埋める。これはどちらも「名」であり、アパートの部屋の名がそうであるように、それぞれ、水色の家と大家の家という空間的な位置とその限定(フレーム・テリトリー)をあわしてもいる。残りはあと「子」と「卯」だ。

「子(ね)」を「子(こ)」とするならば、それは、現在、水色の家に住んでいる森尾家の子どもたちを指すといえるかもしれない。

では「卯」は何か。最初、「卯」という字が「卵」に似ていることから、太郎が、父の遺骨を粉にするために使ったすり鉢とトックリバチの巣とを埋めるために水色の家の庭を掘った時に出てきた、卵のような形のたくさんの石が、その位置を占めるのかと思った。しかし、「卯」という文字を検索したところ、ウィキペディアに、「卯」という字は「茂」または「冒」と同じ意味で、もともとは草木が地面を蔽うようになった状態を表していると書かれていた。ならば、芝生に覆われた水色の家の庭そのものが「卯」だと言えるのか。あるいは、雑草の生えたアパートの中庭、蔦が茂る大家の家まで含めて、あるいはそれを越えて広く世界全体へひろがる植物の繁茂こそが「卯」なのかもしれない。

なお、ウィキペディアには「子」は、≪「孳」(し:「ふえる」の意味)で、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しているとされる≫と書かれている。ならば、子(ふえる)と卯(しげる)はどちらも生命が成長してゆくようなイメージで、それは「名」と結びついて場所の限定・特定(フレーム)を示す他の動物たちとは異なり、ネズミと兎とは、フレーム間を(古いフレームを捨てて)横断してゆく動きを表わすものとして、あえて「名」としては失われたままになっているのかもしれない。

(そういえば、太郎が、駅前の商店街の裏にある一際大きな空家の内部を「鮮明な」ヴィジョンとして外から想像する時、そこには≪通気口から入り込んだ鼠の足音≫が響いているのだった。ここで鼠は、フレームの内部に自由に出入りする働き=内側の鮮明なウィジョンを外から得ること、を示すものとしてあると言える。)

●あるいは、「4×3=12」の「3」は、この小説の主な舞台となる三つの階層を表わしているともいえる。一つ目は、太郎の住む部屋を含み四室のあるアパートの一階。二つ目は、「巳」さんと西の住む部屋を含む四室のあるアパートの二階。そして三つ目は、「田」の字のように四つに分割された、アパートを含む一区画だ(アパート・コンクリートの壁のある金庫のような家・水色の家・大家の家)。

ラストシーンで太郎は、この区画の「田」の字の中心に位置する塀の上に立ち、アパートの八室すべてを見渡すことになる。この位置は要するに、「田」の字に分けられた四つの土地も含めて、区分けされてラべリングされた「4×3」すべてのフレーム・テリトリーを見渡せる位置でもある。この時、太郎は、階層の異なるすべてのフレーム(土地・空間的フレーム)を見渡すことのできる一つのフレーム(人・視点的フレーム)となっている。

フレームを見るフレームもまた、フレームによって区分けされる。しかし、そのフレーム内フレームは、自らの位置を移動させることもできる。自ら配置する、配置されるもの。このラストシーンは、この小説のあり様を、鮮やかに示してもいる。

 

2014年6月22日記す 古谷利裕

●わからないということがわかるというのはとても重要なことなのだが、しかしそれはむつかしくて、人はしばしば、かんたんにわかったような気になってしまうのだから、わからないことを本当にわからないとわかるために、本気で全身を使ったシミュレーションを試みてみて、それによって、それでもわからないことがあるとわかる必要がある、ということを18日の日記に書いた。

「春の庭」(柴崎友香)という小説の底の方にも、このような意味での「わからない」という感覚についての表現があるように感じた。

この小説を駆動している根本の欲望が西のものであるとして、しかし小説の主な視点が太郎にあるということは、その欲望が基本的に謎であるということだ。なぜ、西がそのような欲望をもつにいたったのかという経緯の説明は書かれているが、それは、西の欲望そのものの生々しさを表現するものではないし、それによってその欲望を自分の内部で再現できるようになるわけでもない。太郎は、その説明を受け入れはするが、共感はしない。そもそも太郎は、「春の庭」という写真集から、西が言うような≪愛する人とともに暮らすことは楽しそうだ≫という感覚を感じない。むしろそこに「何気なさ」を装う「わざとらしさ」を感じている(実際、写真集をつくった二人はその二年後に離婚している)。それに、小説に書かれた西という人物を追ってゆく限り、写真集が表現するナチュラルさが、装われたものであることを察知する嗅覚が彼女にないとも思えない(西は、怪しい行動をとる謎の人物ではあるが、たんなる不思議ちゃんキャラとして描かれているわけではない)。西には、その≪楽しそう≫な感じが偽のものであることは理解されているのではないかと、感じられる。おそらく重要なのは事の真偽とは別のところにあるのだ、ということは、西の視点によって語られることがらによって理解できる。

もし仮に、その≪楽しそうだ≫という感覚を共有するとしても、その感覚が、西の水色の家への執着、特に黄緑色の浴室への強い執着までを説明するわけではない。西がなぜ、水色の家のこだわるのかという理由(というか、経緯)は理解できるとしても、その強い執着そのものは、わかるようでいて、よくわからない。そして、太郎がもつであろう、この「よくわからない」という感じはおそく読者にも共有される。太郎は、西との関係において、自分はただ、「水色の家」へ近づきたいという彼女の欲望(目的)のための「手段」としてしかみられていないのではないかとも感じている。そういう意味でも、西は、得体のしれない、油断のならない存在であろう。

とはいえ、西は、たんに謎の、あやしい人物というわけではないし、コミュニケーションが困難な不思議ちゃんというわけでもない。実際、太郎は、彼女との付き合いのなかで、空き家に関する見方がかわり、空き家への関心をもつようになり、それへの嗅覚も鋭くなってゆくのだし、彼女の欲望を(理解はしないとしても)徐々に受け入れ、自分がそのために利用されることも受け入れるようになり、最後にはそれに協力することが「責務」であるとさえ思うようになる。だから、コミュニケーションが成立していないということではく、むしろ太郎は西に大きく影響を受けているとさえ言える。だがそれでも、彼女の欲望のあり様は不可解であり、腑に落ちるということにまではならいないし、実際に見ることの出来た(西を充分に高揚させた)「黄緑色の浴室」も、太郎にとっては≪軽い落胆を感じ≫るようなものでしかない。

西の執着や欲望から強い影響を受け、それを受け入れ、その実現に協力することを責務だとまで感じながらも、それでもその欲望そのものについては最終的には共有できず、「わからない」ままなのだ。だからこの「わからない」は、まったく不可解で理解不能ということではない。経緯の説明としては理解できるし、欲望の強さや切実さも実感でき、それに協力しなければならないと思わせられるという程度には理解できるのだが、その欲望の感触を自分の頭のなかで正確にシミュレーションしようとすると、それに上手く像を結ばせることは難しい、という意味での「わからない」なのだ。この「わからない」という感触の不思議さこそが、作家がこだわっているものであり、そしてここで味わわれるべきものなのではないか。「わたし」と「あなた」の関係は相互作用的であり、相互浸透的ですらあると言えるのだが、この「わからない」があることによって、二つの「わたし」が混じり合ってしまうことが抑制される。そして、この小説の主な視点が西ではなく太郎であることの意味も、太郎が、この「わからない」という感じを出現させる装置としてあるということではないか。

●この小説は、終盤まで、主に太郎の視点で進行し、そこに西の視点が少し挿入されるという風になっている。ここで、西という人物は、太郎の視点と西の(自分の)視点の両方から見られ、語られる。しかし太郎は、自分自身の視点から語られるだけで、西の視点は太郎を語らない。太郎が見ている西は語られるが、西が見ている太郎は語られない。その理由は、太郎にとっての西が「わからない」存在であるという感触を残すためには、西が太郎をどうみているかが読者に開示されてはまずいからだろう(西から見た太郎が描かれてしまうと、読者が両者を等しく理解してしまうので、メタレベルに立ってしまって、「わからない」という感触が消えてしまう)。

終盤になって、太郎の姉が「わたし」という人称を伴って唐突に登場するのは、それでも、太郎が、自分以外の誰か外側の視点によって語られる必要があったということではないだろうか。つまりこの「わからない」を、太郎の主観ということだけで終わらせたくなかった、ということではないか。

ここで、姉の側から太郎が語られることによって、太郎に生じた「わからない」という感じが、太郎の主観というだけではなく、別の様々な関係性のなかでも生じ得ることだという風に開かれる感じになるように、配置し直される。ここで語られる姉と弟とのやり取りは、すばらしいと思った。

(もっと言えば、姉という人物は、今まで抑圧されていた「太郎に対する西の視線」が人物化して作品表層に現れたものだとも言え、それは逆から言えば、西という人物はそもそも、姉の分身であり、太郎の知らなかった姉の潜在性の「表現形」の一つが西という形で太郎の前にあらわれたものだ、とも言えるのではないか。だとすればこの小説は基本的に姉と弟の話であり、さらに、不在の父を想起させる「巳さん」を含めて、家族の話だとも言える。)

●しかしその上で、ラストの場面では太郎が姉の「わたし」に包摂されてしまうかのようなニュアンスが生じる。視点は意図的に混同され、太郎でも、西でも、姉でもない、第四の視点、視点(フレーム)そのものを相対化するような視点があらわれる(と、言ってもよいと、ぼくは思う)。しかしそれは、まず、太郎にとっての西の「わからなさ」が示され、次いで、姉と弟の視点の間にあるズレが示された上で、なされるということが重要だと思う。つまり、メタレベルに立って「わからない」が消失してしまうのではなく、「分からない」がそのまま残ったまま、その上で、あらゆる視点(フレーム)が相対化される。