フィクションの音域 現代小説の考察

結節点と通路・幽霊的志向性/『男一代之改革』青木淳悟

2014年10月18日 01:08

出発はするが、到着はしない。間に別の話題が挟まり、到着もしていないうちに、出発―到着という出来事が知らぬ間に過去のものになっている。このような語りの進み行きは、「ふるさと以外のことは知らない」以降のこの作家の小説に繰り返しあらわれる。本書でも収録された三篇のうちの二篇がそうだ。

江戸を発った松平定信は、京都にまでは辿り着くが、御所には到着しない(「男一代之改革」)。冒頭で《よこはま》を出た《私の妻》は、どこにも到着することはない(「鎌倉へのカーブ」)。御所へ向かう定信のエピソードは何度か回帰するが、それでも御所に到達できない(到着するのは別の誰かだ)。《よこはま》を出た《私の妻》の姿もいつの間にか消えている。いや、妻を乗せた電車が《よこはま》を出たという「出来事」が消えている。

作中から定信や妻がいなくなるのではない。江戸を発った定信、《よこはま》を出た妻が闇に紛れてしまうだけで、京都から帰った定信、一人暮らしをした後に《私》と二人で都内へ戻ることになる妻は存在する。え、それってただ到着する場面が省略されているだけなのでは……。

この作家の作品では、距離や順番が時間と空間の秩序から外れている。空間は均質な拡がりではなく経路であり、時間は過去から未来へ自動的に流れるのではなく、ある結節点から別の結節点への飛躍によって生じる。まず、時間と空間が生まれる前の「結節点と通路の絡み合いの塊」が潜在的世界としてあり、そこに、結節点から結節点へと移りゆく「視点の動き」が生じることで時空が発生する。客観的時空が予めあるのではなく、視点が移動した経路が結果として空間となり、順番が時間となる。

因果律に従って原因が結果を生む未来への展開があるのではなく、書庫の書物群のなかに出来事は既にすべて書かれてある。少年の定信が壮年の定信へ育つのではなく、両者は別のページに同時に存在し、別の通路へ伸びている。それらを巡る経路と順番によって世界が立ち上がる。未知は未来にではなく道順にある。

世界を立ち上げるのは「語る」行為だ。だが、話者は結節点から結節点への飛躍力が弱いキャラのようだ。出発したまま到着せずに消える人物は、目的地に向かおうとするベクトルだけを幽霊のように作中に残す。この幽霊的志向性が、錯綜した構造体に、書かれ、読まれることを可能にする方向を生む。この微弱なベクトルが跳躍の燃料だ。跳躍=能動力の弱さは話者を彷徨わせ、経路に多くの偶然(未知)を呼び込むだろう。

古谷利裕

初出「すばる」2014年10月号