フィクションの音域 現代小説の考察

死ぬわたしと、それとは別のわたし  山下澄人『砂漠ダンス』

2014年07月14日 23:10

 すべての人が自分のことを「わたし」と呼ぶ。つまり世界には「わたし」しかいない。これは驚くべきことではないか。このことを考えるとわたしは恐怖で硬直してしまう。

 例えば、酒を飲んだ帰りの終電に近い混んだ電車の中に一人でいて、目的の駅はまだ遠いとうんざりしている時に、ふと、この車両のなかにいるすべての人が「わたし」なのだということに気付く。ここにいる人すべてが、それぞれに異なる文脈や身体において、今わたしが感じているのと同等の重みで「わたし」であり、それぞれに異なる種類であっても、今わたしが感じているのと同等の重みで何かしらの感情や欲望や問題を抱えていて、それがそれぞれ切り離されてあるのだということに気付く。わたしにとって「わたし」は一人で十分鬱陶しくて重たいのに、こいつらすべてが「わたし」なのかと思うと、ただでさえ閉塞を感じる車内に、物質的な身体の空間占有をはみ出すいくつもの「わたし」が風船のように膨らんで、窒息しそうになる。

 このような感覚を延長して、この地球上には七十億もの人がいて、そのすべてが自分を「わたし」という形で現象させているのだと考えると、あまりの途方もなさにクラクラしてしまう。

 だが、「わたし」とは何なのだろう。仮に、今ここにいる「わたし」とまったく同じ身体のコピーが可能であり、そこに今ここにいる「わたし」とまったく同一の記憶や思考を書き込むことが可能だとする。あの「わたし」とこの「わたし」とは形も中味も無意識も完璧に同一であり、わたしにさえその違いは分からないとする。同一であるのだからオリジナル
/コピーという差異は消失しており、どちらかがオリジナルだとはもう言えない。そして、そのどちらか一方が死ななければならないとする。一方が死んでも、外から見れば「わたし」は(内側も外側も完璧に継承され)生きている。だが内的には、死ぬ方のくじを引いたこの「わたし」は自分が死ぬと思うだろう。どちらも「わたし」として現象しているのであれば同じくらい死にたくはないはずだ。

 この思考実験から言えるのは、「わたし」とは中味(内容)の問題ではないということだ。つまり「わたし」とは、ある感情や感覚や思考が他から切り離された「ここ」において現象することであり、そのような「ここ」という形式が持続するということだろう。まったく同じ状態が現象しているとしても、それが「ここ」でなく「そこ」で生じるならばそれは「わたし」ではない別の誰かだ。逆から考えれば、昨日の「わたし」と今日の「わたし」、さっきの「わたし」と今の「わたし」とが、外見的、内面的にどんなに大きく隔たっていたとしても、「ここ」という内的形式によって関係づけられてさえいれば同じ「わたし」が生きつづけていることになる。「ここ」がなければ「わたし」はいないし「わたし」がいなければ「ここ」はない。

 「わたしが死ぬ」ということの恐怖について考えたい。「わたし」が形式である以上その恐怖は抽象的なもので、それは身の危険を感じて生じる動物的な恐怖とは違う。また、具体性のある身体的苦痛への恐怖とも違う。「わたしが死ぬ」ということへの恐怖は、「宇宙には果てがない」と想像する時の恐怖に似ている。あるいは、対角線論法や連続体仮説を知った時に感じる恐怖に近い。矛盾するようだが、「わたしが死ぬ」ということを考える時の恐怖は「わたしが決して死ねないとしたら......」と想像する時の恐怖とまったく同質であるように思われる。「わたし」が永遠に消えるという恐怖と「わたし」が永遠に存在するという恐怖の間に違いはない。それらは無限(無限定)に触れてしまうということへの恐怖なのだ(わたしがこのような恐怖をはじめて感じたのは手塚治虫の『火の鳥』を読んだ時だった)。

 つまりこの恐怖は、わたしが「わたし」(持続する「ここ」)という形式以外で≪わたし≫(≒何かしらの感情や感覚や思考)の出現を想像することが出来ないというところからきている。「わたし」が死ぬことも、「わたし」が死ねないことも同じくらい怖いのだとしたら、恐怖から逃れるためには「わたし」という形式で現象するものとは異なる感情や感覚や思考を生み出すための、[否‐わたし]というべき別の形式を編み出さなくてはならなくなる。それが達成されている間だけは「わたし」の死の恐怖は消えているだろう。

 『砂漠ダンス』の書評であるはずなのにテマエ勝手なゴタクばかりを書き連ねやがってと思われるかもしれない。だが、わたしは山下澄人の小説を読む時にいつも前述したようなことを考えてしまう。山下の小説実践は、無限定(地)に対する限定(図)としての「わたし」、あるいは、そこ(他)に対するここ(自)としての「わたし」という形式からの脱出の試みであるように思われる。この時、ただ、限定を無限定の方へ開いたり(神秘主義?)、ここの特権性を相対化してそこと並列化してやる(合理主義?)だけでは不十分だ。そうではなく「限定
/無限定」「ここ
/そこ」という構えそのものから脱出しなければ「わたし」から逃れられない。

 例えば、最初は「ここ」と「そこ」という別々の場所に生じたはずの二つの出来事が、後にどちらも同じ「ここ」として関係づけられたり、逆に、どちらも「ここ」において起こった二つの出来事が、後になって「ここ」と「そこ」へと分離されたりするようなことが起こり得ると想定してみる。それが可能であれば、その時の「ここ=わたし」は、安定的に持続する(そして死ぬ)「わたし」とは別の、否‐わたし的な「ここ」や「わたし」となっていると言えるのではないか。

 ○月×日、わたしは家で本を読んだ。同日、あなたは街へ出てAさんと会った、とする。その経験が後になって「わたしは家にいて、しかしAさんと会った、あなたは街へ出て、しかし本を読んだ、そしてAさんは、その同じ時にまったく別の場所でBさんと会っていた、そしてそのBさんこそがわたしだった」と出来事間の「ここ/そこ」関係が組み替わることがあり得る、と考えてみる。だがそんなことを、本当にリアルに実感することができるのか。

 ここで小説を書く=読むとは、そのような[否‐わたし]をリアルに想像し生きようとする行為そのものであり、そんなことが出来るのか実際にやってみているという実験=実践であって、「そのような考えを表現する/読解する」ということとは少し違う。

古谷利裕 (初出 「新潮」二〇一三年一一月号)  


「本のデータ」

書名 『砂漠ダンス』

著者 山下澄人

出版社 河出書房新社