フィクションの音域 現代小説の考察

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 すべての人が自分のことを「わたし」と呼ぶ。つまり世界には「わたし」しかいない。これは驚くべきことではないか。このことを考えるとわたしは恐怖で硬直してしまう。 例えば、酒を飲んだ帰りの終電に近い混んだ電車の中に一人でいて、目的の駅はまだ遠いとうんざりしている時に、ふと、この車両のなかにいるすべての人が「わたし」なのだということに気付く。ここにいる人すべてが、それぞれに異なる文脈や身体において、今わたしが感じているのと同等の重みで「わたし」であり、それぞれに異なる種類であっても、今わたしが感じているのと同等の重みで何かしらの感情や欲望や問題を抱えていて、それがそれぞれ切り離されてあるのだというこ
「立ち読み」に、「関係のなかで関係が考える」をアップしました。 津村記久子『とにかくうちに帰ります』の書評です。初出は、「群像」二〇一二年五月号。
 「風景が私のなかで考える」、正確に引用すれば《風景は、私のなかで反射し、人間的になり、自らを思考する》。これはガスケによって書きとめられたセザンヌの言葉だ(『セザンヌ』ガスケ)。私が考えるのではなく、私のなかへと反射された風景そのものが、自らを思考する。思考するのは私ではなく風景であり、私は、風景の思考を反射する感光板であり、私のメチエはその翻訳である。セザンヌはそう言っている。 《私》がどんな人物なのかはまだ分からない。ただ《田上さん》への眼差しだけがある。この本はそのようにはじまる。そこは会社であるらしいが、どのような職種で、どの程度の規模なのかもまだ分からない。《田上さん》の仕事は、社
「立ち読み」で、本に収録されている26000字の青木淳悟・論「書かれたことと書かせたもの」の冒頭部分を読めるようにしました。
  1 「四十日と四十夜のメルへン」 「四十日と四十夜のメルへン」の冒頭、主人公は、住んでいるアバートのポストを確認した後、スーパーの買い物袋を手に下げて四階にある自分の部屋まで階段をのぼってゆく。階段をのぼりつつ、この建物「都営住宅メイフラワー下井草」が、四階建てであるとか、エレべーターがないとか、三階には誰も住んでいないとか、玄関の扉が緑色だとかいぅような、住宅についての説明が主人公=話者によって述べられる。そして主人公は、自身の住居のある四階まできて、隣室(四〇二号)のアルミ格子に挟んであった新聞に肩が触れてそれを落としてしまい、その新聞をひろって自室に持ち帰る。ここで主人公は、はじめて
「立ち読み」に、『フィクションの音域 現代小説の考察』には収録しなかった、ガルシア=マルケスの自伝の書評をアップしました。初出は、「新潮」2010年1月号でした。

ウェブサイト開設

2014年07月14日 08:01
電子書籍『フィクションの音域 現代小説の考察』宣伝用のウェブサイトを開設しました。  
この、恐ろしく雑多にエピソードがびっしりと詰まった、しかも、その密度にかなりムラのある本について、一体どんなことを書けばよいのかと呆然としている。何かしら、まとまったことを言うことなど可能なのだろうか。六百五十ページを超えるこの自伝には、ガルシア=マルケスの二十七歳までの出来事が書かれており、その時点で彼は作家というよりジャーナリストであり、小説は、最初の長編である『落葉』が、あまり幸福とは言えないかたちで出版されているだけだ。圧倒的な密度というわけではない。密度を求めるのであれば小説作品には及ばないだろう。しかし、大作家ガルシア=マルケスの生い立ちをめぐる数々の面白いエピソードが、作家一流の
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