著者
電子書籍『フィクションの音域 現代小説の考察』(古谷利裕)の、宣伝用のウェブサイトです。
この本は現代の日本語で書く小説家の作品について考察したもので、「新潮」「群像」「文藝」「文學界」「すばる」などに掲載された書評や評論、シンポジウムの講演原稿で構成されています。
BCCKSで販売しています。最初の12ページは、立ち読みできます。
https://bccks.jp/bcck/123684/info
そのほかにも、amazonのKindleストアと、楽天<kobo>イーブックストアで取り扱われています。
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「まえがき」
基本として書評集です。
主に文芸誌に掲載された書評から、現代の日本語で書く作家の小説について書いたものを選んでまとめました。
次に挙げる一七名の作家たちの作品について考えたことを書いています。
青木淳悟、青山七恵、絲山秋子、磯﨑憲一郎、大江健三郎、岡田利規、奥泉光、柴崎友香、大道珠貴、津村記久子、橋本治、福永信、古井由吉、保坂和志、山崎ナオコ―ラ、山下澄人、横尾忠則(五十音順)
ここに取り上げた作家たちは誰もが、通常、わたしたちが当然だと思い込んでいる、耳になじんだものとは「別の音域」においてフィクションを成立させようとしている作家たちだと考え、「フィクションの音域」というタイトルにしました。
わたしたちは、フィクションを通じて現実を認識し、フィクションを通じて現実について考えているのだと、わたしは考えます。だから、フィクションの音域を広げようとすることは、現実の可能性を広げようとすることであり、現実を変える可能性をつくりだそうとすることだと思っています。
それぞれのテキストは、個別の作品にその都度出会った時に感じたり考えたりしたことを書いたもので、俯瞰的に「現代小説の見取り図を描く」という意図をもつものではありません。
それでも、本としてまとめようとすると、それらをあるやり方で「配置」する必要があり、配置は結果として「関係図」を描き、文脈を示すことになります。しかし、配置とは可動性があるということであり、関係は常に、別の関係の可能性へとひらかれているはずです。
配置には可動性があり、読むという行為は、それを読むそれぞれの人がその可動性にはたきかけることだと思います。だからこそ、「読む」ことに意味があるのだと考えます。
『フィクションの音域 現代小説の考察』もくじ
まえがき
Ⅰ 書評
(1) 二一世紀の前衛
死ぬわたしと、それとは別のわたし (山下澄人『砂漠ダンス』)
脳内次元数拡張小説 (山下澄人『ギッちょん』)
罠と監視と恩寵 ( 磯﨑憲一郎『往古来今』)
空隙という糸=ネットワーク (保坂和志『カフカ式練習帳』)
死の恐怖による専制に抗する (保坂和志『未明の闘争』)
(2) 七十年代生まれの作家がひらく新たな地平
「わたし」たち ( 柴崎友香『星よりひそかに』)
「そこ」にいる「わたし」 (柴崎友香『わたしがいなかった街で』)
分身と宇宙人と精霊 (柴崎友香『星のしるし』)
探る手の〈動き〉が掴み取る〈形〉 (岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』)
リアルフィクションの希望 (岡田利規『エンジョイ・アワー・フリータイム』)
世界の中に謎はないが、世界そのものが謎である (青木淳悟『私のいない高校』)
子供たちの生まれる場所 (福永信『一一一一一』)
(3) 女性作家の位相
関係のなかで関係が考える (津村記久子『とにかくうちに帰ります』)
媒介が思考し、関係が対話する (津村記久子『ウエストウイング』)
三人の姉と三人の女+一 (青山七恵『わたしの彼氏』)
不撓不屈の問いかけ (山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』)
親しいもの、懐かしいもの、と、痛さ (大道珠貴『傷口にはウオッカ』)
(4) 複数の前線
瓦解する世界のなかの子供 (古井由吉『蜩の声』)
関係(認識)と孤独(感触) (橋本治『夜』)
「見えるもの」の過剰と不実 (横尾忠則『ポルト・リガトの館』)
反転と隣接、隠蔽と欠落 (絲山秋子『不愉快な本の続編』)
どこにも着地しないという緊張-リアリティ (奥泉光『神器 軍艦「橿原」殺人事件』)
Ⅱ 講演
こちら側と向こう側との境 (大江健三郎『水死』)
Ⅲ 論考
書かれたことと書かせたもの/青木淳悟・論 「四十日と四十夜のメルへン」から「ふるさと以外のことは知らない」まで
付 作家案内