フィクションの音域 現代小説の考察

デコボコなエピソードの間を移動する  『生きて、語り伝える』ガルシア=マルケス (未収録)

2014年07月14日 00:00

この、恐ろしく雑多にエピソードがびっしりと詰まった、しかも、その密度にかなりムラのある本について、一体どんなことを書けばよいのかと呆然としている。何かしら、まとまったことを言うことなど可能なのだろうか。六百五十ページを超えるこの自伝には、ガルシア=マルケスの二十七歳までの出来事が書かれており、その時点で彼は作家というよりジャーナリストであり、小説は、最初の長編である『落葉』が、あまり幸福とは言えないかたちで出版されているだけだ。

圧倒的な密度というわけではない。密度を求めるのであれば小説作品には及ばないだろう。しかし、大作家ガルシア=マルケスの生い立ちをめぐる数々の面白いエピソードが、作家一流の、魅力的で時に胡散臭くもある筆致で語られている本と言って済ませるには、過剰であり過ぎる。いや、過剰という点ならば、ガルシア=マルケスであればこのくらいの過剰さは当然だと言えるかもしれない。だから、この本を読んで戸惑ってしまうのは、過剰さという点よりもむしろ雑多さだと言うべきだろう。数々のエピソードは、強い求心力によって束ねられているというよりも、束ねるためのヒモを解かれて、バラッと散らかされているような印象なのだ。それは、圧倒的な語りの推進力によって脱線に次ぐ脱線を繰り返して展開されるということとも違う。

苦し紛れに「移動」というキーワードをひねり出してみることは出来る。この本は、バランキーヤに住む二十三歳になろうとする《私》のところに、十一人の子供を産んだ四十五歳になる母親が、アラカタカにある祖父の家を売りに行くのに付き合って欲しいと訪ねてくる場面からはじまる。ガルシア=マルケスはこの母親の最初の子供であり、アラカタカの祖父の家とは、彼が幼い頃を過ごした家である。まず、バランキーヤ、アラカタカという地名の響きが魅力的なのだが、カリブ海に近いバランキーヤから、内陸にあるアラカタカまで、船と鉄道を乗り継いで行く過程の、移動の困難、そこに居合わせた人々、風景の移り変わり、そして風景が記憶と混ざり合ってゆく様などの生き生きした描出が、この分厚い本を読み始めたばかりの読者をぐっと引きつけるだろう。そしてその後も、ガルシア=マルケスの住処は、スクレ、ボコタ、カタルヘーナ、そしてまたバランキーヤと次々に移動してゆき、最後はコロンビアから逃れスイスへと旅立つところでこの本は閉じられる。その間にも、いくつもの移動が差し挟まれ、この本の主役である未来の大作家は、ほとんど着の身着のままで常に移動の途中にいて、あらゆる場所が仮の住処でしかないようだ。

だから、この本の雑多なエピソードの展開を可能にしているのは、逸脱へとはみ出すような語ることそのものの過剰な推進力であるより、物理的な視点-身体の移動であろう。語りの雑多な散らばりは、時間的、空間的な秩序の内部に一応は収まっている。実際、この本の記述は、冒頭のアラカタカの旅から、まだ本人が生まれる前の祖父母や両親のエピソードへと遡行してゆく以外は、ほぼ時系列に乗っ取って並べられている。逆に言えば、時間の順序にさえ従っていれば、エビソード間の関連などかまわずに、どんどんいろんな話を並べてしまっても大丈夫だ、と言わんばかりの自由さ-散らかり具合なのだ。一つ一つのエピソードのそれぞれが異なった時間の幅を内包しているので、時間はデコボコして滑らかには進まない。そして、常に移動の途中にある未来の大作家にとって、唯一の定住の場こそが、幼少時を過ごしたアラカタカの祖父の家であるようだ。

祖父の家こそが、あらゆる場所が通過点でしかない未来の大作家にとって、自分自身の起点として作用しているようだ。しかしここでは、視点が固定している代わりに、周囲の人々が方が移動している。バディーヤ地方から逃げるように移住してきた祖父母は田舎へのノスタルジアのなかに住んでおり、いつも故郷の情報を欲していることから、この家は常に故郷からの客に開かれていて、毎日のように列車に乗ったお客が訪れ、多くの親類たちが雑居する家であった。第二章の前半で、この家に住む人々や、この家を訪れる人々のエピソードが、半ページか、せいぜい一ページくらいの長さで手短に語られ、次々に移りゆく部分が、冒頭のアラカタカへの旅の部分、そして、第三章のリセオに入学するためのボゴタへの船旅の部分と並んで、この本で最も魅力的だと思うのだが、後者二つが移動の途中そのものであるのと同じくらい、祖父母の家での人々の短いエピソードの素早い移行は、動いているという感覚と共ににある。

この本のなかには、様々なことが書き込まれている。それは、将来大作家となるガルシア=マルケスの、一族の来歴であり、彼自身の幼少時であり、作家への道のりであり、それを後押しする周囲の文化的な環境であり、その時代のコロンビアの政治的、社会的な状況である。しかし、それを一つのまとまった物語としてみようとすれば、あるいは、それら一つ一つの主題への真摯な興味によって追っていこうとすれば、その記述はあまりに雑多であるとともに中途半端であるようにも感じられてしまう。で、けっきょく何が言いたいの?、という具合に。度々書き込まれるコロンビアの政治的惨状は、しかし、ガルシア=マルケス自身やその周囲の人物のエピソードとは、あまり関係がないように見えてしまう。関係がないというのは言い過ぎだとしても、相互のつながりがあまりに唐突のように思われる(第五章を除いて)。例えば最終章で、朝鮮戦争の退役軍人の惨状についての記述の後、唐突に昔の年上の恋人との再会の苦いエピソードが並べられると、テレビで悲惨なニュースが読まれた後に場違いなCMが流れる時のような違和感すら感じる。

おそらくこの本で書かれているのは、物語でも、ある特定の主題の追求でもないのだ。個々のエピソードは独立しており、その短いエピソードそれ自身がもつ力と、あるエピソードから別のエピソードへと移りゆく、その移動と落差こそが重要なのだ。エピソードという単位で独立したモジュールを、主人公たる未来の大作家も、語り手も、そして読者も、その間を移動してゆくことでつないでゆく。あるエピソードと、かなり後になって書かれる別のエピソードが共鳴することで、そこにつながりのある物語が発生することもある。しかしそれは、伏線とその回収、主題とその展開とは異なり、あくまで独立したエピソード間の共鳴のようだ。

この本には驚くほど多くの人物、多くの人名が書き込まれ、しかもその多くが一度か二度登場するだけで消えてしまう。最初にその人名があらわれた時点では、その人物が今後何度も登場するのか、それっきりで消えてしまうのか判断できない。だから、途中からはもう人名を憶えようとすることを放棄してしまうのだが、それでも、その人物が二度目、三度目に出てきた時、多くの場合そのエピソードの内容から、ああ、これはあの時のあの人だろうと判断できる。しかし、もしかするとそれは勘違いかも知れないのだ。そのような勘違いや記憶違いも含めて、あるいは架空の記憶さえ含めて、エピソード同士が響き合う。

この本で最も心に残ったのは、アポリナールという祖父の家にいたもと奴隷の男のエピソードだ。彼はあるふっと日姿を消し、二年後にふらっと、その時点では誰も知らなかった祖父の死を前もって知っていたかのように喪服を着てあらわれる。この印象深いエピソードは、長大な本のなかのたった七行が費やされるだけだし、男はその後、二度と登場しない。


古谷利裕

(初出 「新潮」2010年1月号)


「本のデータ」

書名 『生きて、語り伝える』

著者 ガブリエル・ガルシア=マルケス (翻訳 旦 敬介)

出版社 新潮社